『自分の音楽』について。
考えてみたら一昨年位からずっとバタバタしてる。
今年は砂上の楼閣RECします、多分夏位かな。恐らく5〜7曲、今年中にはきっと砂上のあの名曲がCDで聴けますね。
色んな事と真剣に向き合い自分の強さも弱さも未熟さも醜さも全てしっかり受け入れながら、それ故に試行錯誤しつつ自分から生まれた大切な欠片達。
この作品はきっと私にとっては思い入れの強い作品になるでしょう、自分がいつかあっちに旅立つ時は必ず棺桶の中に入れて欲しい、そんな作品になる筈。
作品を作るのって結局は自分の身も心もギリギリと削りながら作る訳なので本当に大変で消耗する、だけどそこまでしてでも作る価値が自分にとっては、ある。
とにかく良い作品になるよう頑張ろう。
ところで最近私のTwitterのTLはピカルミンの登場率が高いですね。。
ここ半年位はガジェット類やノイズミュージックについて自分なりに色々考える事が多い。
『ノイズ』と言えば何でもアリ、ただうるさい音出してメチャクチャやれば良い、という考えもあるだろうけど。私が思うノイズ、いや、私がやりたいと思う音楽やライブは全て『短編映画』の様な概念で作り上げたいなと思ってる…なかなか難しい所だけど。。
本当は随分前から使ってみたかったピカルミン、実は今まであえて避けて来た。ノイズやシンセ界ではあまりにもネームバリューが大きい上に飛び道具要素が強いし、見た目のインパクトが余りに強烈だから。ピカルミンの存在に完全に負けてる自分には使いこなせる自信が無かった。
でも長年、大好きで家族みたいな存在のガジェット達と真剣に向き合ってきたからこそ、今なら自分にしか鳴らせない音をピカルミンで鳴らしてみたいなと。他人から見たら大袈裟かもしれないけど、自分にとってピカルミンは『挑戦』なのだ。
しかし不思議なもんだな、昔の私が今の私を見たらきっとビックリするんじゃないかな。
こういう事を言うと反感を買うのかもしれないけど『どうせ…』という色んな言い訳しながら実は居心地の良いネガティブという名の底無し沼に無抵抗のまま延々に沈んでいくのって、ある意味、楽だったんじゃないかって思う。
何も見えない真っ暗な沼に沈んでいるうちにフと、今まで見た事のない光を見てみたくなって。だいぶ深く沈んでしまったから必死にもがいて、やっと微かな光を目が捉えた、今はそんな感じ。
正直なところ其れに気付くのがもう少し早かったら良かったかもしれないね、でも、
私は美しい物を作り上げたいんです、美しさって見た目って話では無くて。琴線に触れるような、誰かの心と身体とそして脳味噌の奥に鋭く何かが刺さってグチャグチャ掻き回してしまうような。
私が思う美しい音楽をいつか奏でたい。
其れが、
私に残された最後の理由なんだと思う。